2010年5月22日土曜日

パレスチナをめぐって 4

第1次大戦中、莫大な戦費を必要としていたイギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を約束することで、ユダヤ人豪商ロスチャイルド家から資金援助を得た。他方、イギリスはアラブ人に対して、パレスチナにおけるアラブ人国家の建設を約束することで、オスマン帝国に対する武装蜂起を呼びかけた。
こうした「二枚舌外交」を使い、1917年にイギリスはオスマン帝国を破り、パレスチナはイギリスの統治下となった。

ドイツおよびドイツの占領地では反ユダヤ主義が激化し、第2次大戦中にナチスは600万人のユダヤ人を虐殺した。
名目は「民族的純血の厳守」すなわち民族浄化であったためユダヤ人だけでなく、ロシア人、セルビア人、スラブ人、黒人、障害者、同性愛者、反ナチス運動家なども合わせると犠牲者は900万~1100万人ともいわれている。

この前後から、シオニズムが高まっていた。
シオニズムとは、世界各地に離散して迫害され続けたユダヤ人が、故郷のシオン(エルサレム)に帰って祖国を再建しようとする運動。
当然、すでにそこに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)は抵抗し、イギリスも移民の制限をしたが、数十万人のユダヤ人がパレスチナになだれ込んだ。

大戦後、ユダヤ人とアラブ人双方が独立を要求してイギリスと衝突。各地で両者によるテロ、虐殺、暗殺が相次いだ。
イギリスは統治権を返上してこの問題を国連に委ねた。
1947年にはパレスチナにはアラブ人が131万人、ユダヤ人が63万人いた。
国連は、56.5%の土地をユダヤ人に、43.5%の土地をアラブ人に与え、エルサレムを国際管理とする決議を下し、1948年イスラエルが建国された。



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