2011年5月4日水曜日

イメージ 中国 2

中国文化の基盤となったのは、かつて四大文明のひとつといわれた黄河文明(BC5000~BC2000年)と考えられてきたが、それよりはるか以前の長江文明(BC14000~BC1000年)が1970年代に発掘された。
長江文明は、メソポタミア、インダス、エジプトとほぼ同時期に興り、稲作のルーツも長江にあることがわかった。

BC2000年頃から、いくつもの王朝が興亡を繰り返してきた。
最初の帝国である「秦」(BC778~BC206年)に、地名を表すラテン語の接尾辞-iaを付けて「シナ」、さらに英語圏で発音が変化して「チャイナ」と呼ばれるようになった。

17世紀に始まった清は、19世紀にはイギリスとのアヘン戦争に敗れ、さらに朝鮮半島をめぐる日清戦争に敗れたことにより、英独仏露米日などの列強によって半植民地化された。
1911年、これらの支配と清からの独立を目指す辛亥革命が起こり、1912年、革命のリーダーであった孫文が中華民国を樹立した。
最後の皇帝、溥儀は退位して清は滅亡し、王朝支配が終わった。

建国後も列強による局地的な支配が続き、1931年の満州事変を契機に日本が満州国を建国し、さらに1937年から始まった日中戦争で中国の大部分は日本に支配された。
この日中戦争において、中華民国の首都南京で20~30万人が日本軍に虐殺された。

1945年に第2次大戦が終結すると、連合国側であった中国は、戦勝国として領土が変換されるようになった。
戦後まもなく、政権を握っていた蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党とで内戦になった。
1949年、勝利した毛沢東が共産党による一党独裁の中華人民共和国を樹立し、敗北した蒋介石と国民党は台湾に撤退した。

毛沢東は、マルクスの思想をもとにソ連型社会主義の導入を試み、1950年にチベットを併合し、1958年に農工業の大増産を目的とする大躍進政策、そして核開発を進めた。
無謀で非科学的な大躍進政策は2000~4000万人の餓死者を出して失敗に終わり、核開発でも多くの被爆者を出し、毛沢東は辞任に追い込まれた。
1965年、毛沢東は自らの復権を目指して文化大革命を起こした。
文化大革命は、名目上は社会改革であったが実際には権力闘争であり、徹底的な毛沢東への崇拝、思想統制、拷問、恐喝、財産没収などが行われ、数千人が犠牲になった。
1976年の毛沢東の死で革命は終わったが、この期間の中国は混乱を極め、文化の破壊と経済の長期停滞をともなう国家的大惨劇であった。

1978年に政権を握った鄧小平は、市場経済を導入して経済を急成長させた。
経済に続いて政治の民主化を求める動きが国民の間で起こったが、鄧小平はあくまでも自由化は経済に限定する態度を示した。
1989年、民主化を求めて天安門広場に集まった学生や一般市民によるデモが拡大したが、これに対して政府は、軍隊と戦車を出動させ、実弾を用いて数百~数千人の市民を殺した。

1997年に香港がイギリスから返還され、1999年にマカオがポルトガルから返還され、この二都市は独自の法制度を持つ特別行政区となった。



0 件のコメント:

コメントを投稿