6世紀にクメール人による国家が成立し、9~15世紀にアンコール王朝(クメール王朝)が栄えた。
有名なアンコール遺跡群は主に12世紀に建設され、東京23区ほどの広大な敷地に、ヒンドゥー教と仏教の混合する寺院や城壁などが残っている。
その後衰退した王国は元やアユタヤに侵攻され、1887年にはフランスの植民地となった。
大戦後の1949年にフランス連合内として独立、1953年にカンボジア王国として完全独立した。
1965年にアメリカが北ベトナムへの空爆を開始すると、国王シハヌークはアメリカと断交し、反米国家となった。
1970年、将軍ロン・ノルがクーデターを起こしてクメール共和国を樹立し、親米国家となった。
ロン・ノルは自国在住のベトナム人を迫害、虐殺し、またアメリカに自国を空爆させ、数十万人が犠牲になった。
一方、中国に亡命したシハヌークは、毛沢東に心酔したポル・ポト率いる共産主義勢力「クメール・ルージュ」の助けで帰国し、ロン・ノル政権と内戦になった。
1975年のベトナム戦争終結でロン・ノルは追放され、1976年、ポル・ポトによる民主カンプチアが建国された。
戦争によって農業生産は大打撃を受けており、カンボジアは食糧危機に陥っていた。
ポル・ポトは、都市住民に農業をさせるため、強制的に首都プノンペンから農村へ移住させた。
移住に例外はなく、重病人や妊婦も含め、炎天下を何日も徒歩で移動させられ、大量の死者が出た。
子供は親から引き離して集団生活させ、幼いうちから強制労働させた。
知識人、技術者、投資家、富裕層、留学生などは反乱を起こす可能性があるとして、処刑された。
こうした虐殺、餓死、病死で、120万~170万人が犠牲になったといわれている。
当時のカンボジアの人口は800万人であり、国民の5人に1人はポル・ポトに殺されたことになる。
人口比でこれほどの大量虐殺は史上類を見ない。
都市住民の農村入植と強制労働、また貨幣制度の廃止など、極端な原始共産制社会への回帰政策は、非効率的な農業で大干魃をもたらし、逆に食糧危機を深刻化させた。
1978年、元クメール・ルージュのサムリン率いるベトナム軍がカンボジアに侵攻し、ポル・ポトを倒して政権を握ったが、巻き返しを図るポル・ポト派と内戦になった。
1991年、カンボジア和平パリ協定により、20年におよぶ内戦は終結した。
1993年、シハヌークが国王に再即位し、カンボジア王国が再建された。
現在も、国内には多くの地雷や不発弾が埋まっている。
危険標識があるものの、識字率が低いために標識が読めず、危険地帯に立ち入ってしまう者が多いという。
主産業は農業で稲作がさかんだが、生産性は低く、最貧国のひとつである。
クメール人90%、ベトナム人5%、中国人1%。他に36の少数民族。
公用語はクメール語。インド文化の影響でサンスクリット語の借用が多い。文字はこんな感じ→ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
フランス語もある程度通じる。
90%以上が仏教、4%がイスラム教。
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