2010年7月30日金曜日

例の長いトラックの画像、
秒刊SUNDAY
カラパイア
NAGLLY.COM
などのサイトでも取り上げられていた。

秒刊SUNDAYの記事には、「全長300m近い」「アメリカ人らしい」などと書かれていた。
「合成だろ」といったコメントもあった。
こういうのは訂正しておくべきなのか、放っておくべきなのか?

カラパイアもよく見るサイトだが、去年の11月の記事だった。ぜんぜん気づかなかった。

らばQにメッセージを送ったら、とても丁寧な返信が来た。



2010年7月28日水曜日

人気を呼んでいた???

世界の面白いニュースを取り上げる「らばQ」というサイトをよく見るのだが、今日の記事はとても長いトラックの話題で、「あー、これと同じようなの見たことあるよ」と思ったら、僕が撮った写真だった。


2010年07月28日 14:40

とてつもなく大きいものとか、小さいものとか、長いものとかはなぜか人々の気を惹きつけます。

「とにかくながぁ~~~~~~~いトラック」という写真が人気となっていたのでご紹介します。

さすがにこれは普通ではない長さです。

ここまで長いと圧巻ですが、曲がるときはどうするのだろう?とか、そういうことは考えないのがこの写真の見方のような気がします。

海外サイトでも、いろんな感想のコメントがあがっていましたので抜粋してご紹介します。

・こういうタービン・ブレードそのものがトラスとなって後ろのトレーラーと接続して走っているのを見たことがある。

・私も見たことがある。

・木かと思った。

・このトラックが長いことに疑いの余地もない。

・大したことはない。これで縦列駐車をしていたら感心すると思う。

・道路には縦列駐車してると思う。

・長い猫はこの車に乗って仕事先に行くんだ。(参照

・ただ長いトラックの写真というだけで人気になるのか。

・曲がるとどうなるんだ。すごい大周りだろ。

・もっとタイヤがなくていいのだろうか。

・トラック2台だろう。

・トラック2台なら、長さも半分になる。

・2台だとしても十分な長さだ。

このトラックでターンしているところを見たいものですね。

直線の道路が長い国ならではなのでしょうが、実際に走っているところを見てみたくなります。

long truck, no it's too loooooong[Pic]


僕のアルバム→
http://picasaweb.google.co.jp/asajiryo/AUSTRALIA4SOUTH#5286163638156204514

だますつもりは毛頭なかったが、実はこれは2台分。拡大写真を見るとわかる。
ちゃんと見抜いている人もいたようなのでよかった。

オーストラリアの無人地帯では、「ロードトレイン」と呼ばれる長さ50m超の貨物車が、自転車のすぐ脇を猛スピードで駆け抜ける。
この時、すさまじい強風にハンドルを取られ、どういう原理なのか、トラックの方に吸い寄せられることがある。
これからオーストラリアを自転車で走ろうとする人は十分に注意してください。

送信者 AUSTRALIA 2 (NORTH)

あとは、こんなのに出会うことも。
送信者 AUSTRALIA 4 (SOUTH)

送信者 AUSTRALIA 4 (SOUTH)



2010年7月26日月曜日

仕事風景

  

  

  

  

  

    

  

  

今日は日帰りで茨城の日立まで行ってきた。
車で2時間×2、150km×2。
東京から150km離れただけで言葉が変わっていた。



2010年7月23日金曜日

イメージ オーストリア

イギリスを含め、北欧からドイツにかけて分布する諸民族の総称がゲルマン人で、言語や文化に共通性がある。
同じゲルマン系のイギリス人がドイツ人をGermanと呼ぶように、狭義ではゲルマン人はドイツ人を指す。

オーストリアは、ドイツと同民族同言語で、分離と併合を繰り返し、戦争をしたこともある。

オーストリアのハプスブルク家は、ヨーロッパ随一の名門王家といわれ、1438年から1806年まで神聖ローマ帝国の皇帝の座を保持し、また政略結婚によって領土を拡大し、中世から20世紀初頭にかけてスペイン、イタリア、ハンガリーなどの王国からも国王を輩出するなど、強大な勢力を誇った。

1867年からハプスブルク家はオーストリア=ハンガリー二重帝国を統治し、1908年にはボスニア・ヘルツェゴビナを併合したが、これによってスラブ系民族の反感が高まり、1914年、皇太子夫妻がセルビア人に暗殺された。
これを機にセルビアと開戦し、その後列強諸国を巻き込んで第1次世界大戦へと発展した。
1918年、オーストリアは敗戦し、ハプスブルク家による帝国は崩壊した。

その後は、かつての栄華など見る影もないほど弱体化し、1938年にはオーストリアはヒトラーによってドイツに併合された。つまり、第2次大戦前後の時期は、オーストリアという国は存在していなかった。

現在のオーストリア共和国として独立したのは1955年。スイスと同じく永世中立国。
1995年にEU加盟。

首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれ、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、カラヤンなどを輩出した。ベートーヴェンのように、生まれはドイツでもウィーンで活動した音楽家も多い。
音楽家以外の有名人では、ジークムント・フロイト(精神分析学者)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(哲学者)、アドルフ・ヒトラー(政治家)、アーノルド・シュワルツェネッガー(俳優、政治家)など。

複数の民族が混じっているが、オーストリア人は民族としてはゲルマン人とみなされる。
公用語はドイツ語。
カトリック78%、プロテスタント5%。

オーストリア共和国地図  オーストリアの位置

ゲルマン語派の分布


1547年のハプスブルク家の領土
 

オーストリア帝国(1804~1867)     オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867~1918)
オーストリアの位置  オーストリアの位置 



2010年7月19日月曜日

イメージ ハンガリー

9世紀、ヨーロッパとアジアを南北に分断するウラル山脈の東方からこの地に来たマジャル人が、10世紀後半にハンガリー王国をつくったのが起源。
現在のハンガリー人はDNA分析ではコーカソイドだが、ヨーロッパで唯一アジア系民族の血筋を引く国であり、赤ちゃんに蒙古斑があったり、苗字が名前より先だったりと、アジアの名残りがある。

モンゴル帝国の侵攻、オスマン帝国の支配、オーストリア=ハンガリー二重帝国などを経て、1918年に独立。
第2次大戦後はソ連の衛星国となり、王政が廃止され、共産国となった。
1956年、ソ連に対する反発から、ハンガリー動乱が起きたが、ソ連軍に鎮圧された。
1989年に民主化。
2004年にEU加盟。

EU加盟当時までは「旧東欧の優等生」といわれるほど経済成長が好調であったが、インフレと失業率の増加で貧富の差が拡大した。

今年4月に発足したオルバン新政権は、「前政権がデータの改ざんをしており、デフォルト(債務不履行)の噂も誇張ではない、ハンガリーは次のギリシャとなる。」という爆弾発言をして波紋が広がったが、ハンガリーは危機管理に優れた実績があり、この発言はパフォーマンスだ、という見方もある。

ハンガリー出身の有名人では、19世紀最大のピアニストであり、作曲家でもあるフランツ・リスト、現在のコンピュータの動作原理であるノイマン型コンピュータを発案した数学者ジョン・フォン・ノイマン、という2人の天才がいる。

マジャル人95%。他にドイツ人、ロマ人など。
公用語はハンガリー語(マジャル語)。
52%がカトリック。16%がカルヴァン派。

ハンガリー共和国地図  ハンガリーの位置 



2010年7月16日金曜日

イメージ ルーマニア

BC1000年頃からこの地方に住んでいたダキア人と、植民したローマ人が混ざってルーマニア人の祖先となった。
ローマ人の血筋を引いているので、東欧で唯一のラテン系民族。

ローマ帝国の支配、オスマン帝国の支配などを経て、1877年に独立。
第2次大戦後の1947年、ソ連の圧力により王政が廃止され、共産化した。

かの悪名高きチャウシェスクは、1965年に共産党党首、1974年に初代大統領となり、縁故主義による独裁政治で、家族や親族らとともに「王朝」と呼ばれるほど権勢を振るった。
莫大な対外債務の返済のために、食料や灯油などの生活必需品も輸出にまわす「飢餓政策」により、国民の生活は困窮していた。
そんな中、チャウシェスクは「国民の館」なる大宮殿(アメリカのペンタゴンに次ぐ世界第2位の広さの建築物)を建設し、家族や親族とともに優雅な生活を送っていた。
(バブル期に税金1500億円をかけて建築された東京都庁を「まるでチャウシェスクの宮殿だ」と表現した人もいた。)
1989年のルーマニア革命で捕えられて処刑。銃殺シーンは世界中に放映された。

共産主義が崩壊して民主化された後も、経済は停滞しており、貧困から脱却できていない。

2007年にEU加盟。

ルーマニア人89%、マジャル人6%、ロマ人2%。
公用語はルーマニア語。伊西仏などと同じロマンス語の系統。かつてはキリル文字だったが、18世紀以降はラテン文字(ローマ字)になった。
87%がキリスト教ルーマニア正教会。

ルーマニア地図  ルーマニアの位置 



2010年7月14日水曜日

イメージ ブルガリア

「人種」と「民族」はしばしば混同される。
「ヨーロッパ=白人」というイメージがあるが、DNA分析による人種の分類上では、アラブ人やインド人もヨーローッパと同じコーカソイドである。
おそらく宗教や言語などの共通性から、ヨーロッパというひとつのまとまりが存在しているのだと思うが、同じヨーロッパでもさまざまな民族の分類がある。

ロシアから東欧、中欧にかけて分布しているのがスラブ人という民族で、言語に共通性がみられる。
バルカン半島北部にいた南スラブ人と、アジアから来たトルコ系のブルガール人が混ざって同化し、10世紀頃までに現在のブルガリア人の祖先が形成された。
(ちなみにブルガリアの西に旧ユーゴスラビア諸国があるが、「ユーゴスラビア」は「南スラブ人の土地」という意味。)

ローマ帝国の支配、モンゴル帝国の侵攻、オスマン帝国の支配などを経て、1908年に独立。
1944年にソ連に侵攻されてソ連の衛星国家のひとつとなり、共産党による一党独裁が始まった。
1989年の東欧革命で共産主義が崩壊して民主化され、社会主義から資本主義へ移行した。
2007年にEUに加盟。

経済成長しているものの、EU最貧国のひとつで、失業率の高さや生活水準の低さが際立つ。

ブルガリア人83%、トルコ人9%、ロマ人5%。
公用語はブルガリア語。キリル文字を使うため、ロシア語に非常に似ている。
82%がキリスト教ブルガリア正教会、イスラム教12%。

ブルガリア共和国地図  ブルガリアの位置

スラブ人の分布
 



2010年7月8日木曜日

クルド人について

クルド人は、世界最大の「国を持たない民族」。
主にトルコ、イラン、イラク、シリアにまたがるクルディスタンという地域に居住しており、中東のその他の地域やヨーロッパ居住者も含めると総人口は2500~3000万人。
大半がイスラム教スンニ派で、言語はクルド語。

第1次大戦後の1920年、オスマン帝国の崩壊にともなって、クルド人の自治を認める条約が結ばれたが、クルディスタンに埋蔵されている豊富な石油の利権がからみ、イギリスとフランスの思惑によって反故された。

第2次大戦後の1946年、イラン北部に駐留していたソ連軍の後押しがあって、クルド人民共和国として独立が実現したが、ソ連軍撤退後にイランに侵攻され、わずか1年で国は消滅した。

最もクルド人が多いのはトルコで、1200~1500万人がトルコ南東部にいる。
しかし、単一民族主義をとるトルコ政府は、クルド人という民族を認めず、かれらを「母国語を忘れた山岳トルコ人」と呼び、クルド語の放送やクルド語の教育を禁止した。
1999年、トルコ治安部隊は、独立を目指して武力闘争を展開してきたPKK(クルド労働者党)の党首を逮捕、死刑宣告したが、EUに批判され、2002年に終身刑に減刑した。党首は現在も投獄されている。
EU加盟を切望するトルコは、クルド人問題に難色を示すEUの顔色をうかがい、クルド語の使用を認めるなど、迫害の手を緩めつつある。

トルコに次いでクルド人の多いイラクでは、フセイン政権時にクルド人掃討が行われていた。
1988年、毒ガスや爆撃で18万人を殺害、4000の村を壊滅させた。
イラクのクルド人は米軍駐留を歓迎し、自治政府の設立を呼びかけてきた。
一方でクルド人は、反宗教的な行為をした者に対しての制裁が国際的な批判を受けている。
2007年イラクで、駆け落ちするために改宗した17歳のクルド人少女が、家族らによってリンチを受けて虐殺される映像がインターネットで公開された。

埼玉県蕨市には、約300人のクルド人がいる。
90年代にトルコの迫害から逃れて来日し、クルドの文化を紹介するイベントを開催するなどしている。
しかし、日本政府は一貫してトルコ政府側であり、かれらを難民として認定せず、強制退去や、逮捕された人もいた。
トルコと日本は、PKKをテロ組織とみなしているため、日本にいるクルド人もテロ支援者として疑われることがある。

複数の国に分割されてしまっているクルディスタンでは、各国で独立運動をしても連携がとれず、少数派による反政府運動としかみなされない。
互いに敵対しあう中東諸国に、石油地帯かつ水源地帯でもあるクルディスタンを手放して独立させろというのは、現実的には厳しいかもしれない。
もし将来独立が実現したら、イスラエルのような悲劇が繰り返されないことを祈る。



2010年7月6日火曜日

イメージ トルコ 2

・カッパドキア
アナトリア高原に100k㎡にわたって見られる奇岩群で、トルコ随一の名所。
6000万年前の火山で凝灰岩が堆積し、風雨の浸食によって残ったキノコ形の奇妙な岩石が林立している。
紀元前から、人々は柔らかい岩石をくりぬいて住居とし、4世紀頃からキリスト教徒が移り住み、弾圧から逃れるための隠れ家となった。
36の地下都市、30の岩窟教会が確認されている。
1965年に発見された地下都市は、地下8階、深さ65mにおよぶ。

・アララト山
アルメニア、イランとの国境近くにある、トルコの最高峰(標高5137m)。
ノアの方舟が大洪水の後に漂着した山といわれている。
今年4月に「アララト山で方舟発見」というニュースが報じられたが、すぐに捏造であることが発覚した。→参照
方舟の「発見」は頻繁にあるようで、まず信じない方がいい。
アララト山は紀元前はアルメニア王国の中心にあり、今もアルメニア人にとっての故郷であり、シンボルでもある。
オスマン帝国時代までは山麓に数百万人のアルメニア人が住んでいたが、第1次大戦中のオスマンによる強制移住の際、多数のアルメニア人が虐殺された。
アルメニア側は150万人が虐殺されたと主張し、トルコ側は戦時下の悲劇で30~50万人が犠牲になったが虐殺ではないと主張する、「アルメニア人虐殺問題」として現在も未解決。
第1次大戦後にアララト山はトルコ領となるが、アルメニアは認めておらず、現在もアルメニアの国章にはアララト山が描かれている。

・トロイ遺跡
BC8世紀頃のギリシャの吟遊詩人ホメロスによる「イリアス」と「オデッセウス」に書かれているトロイ戦争(BC1250年頃)の舞台となった都市の遺跡。
ギリシャ軍が敗戦の意を示すために巨大な木馬をトロイ軍に献上し、トロイ軍が油断したところを、木馬の中にひそんでいたギリシャ軍が攻め込んでトロイを陥落した、という「トロイの木馬」の話が有名。
架空の物語だと思われていたが、1870年代にドイツのシュリーマンがトルコでこの都市遺跡を発掘し、その実在が証明された。

・パムッカレ
台地の斜面に沿って流れ続けた温泉の石灰分が沈殿して形成された、階段状の真っ白な石灰段丘。
岩肌を覆う結晶が鍾乳石や氷結した滝のような景観をつくりだしている。
古代から保養地となっており、最上部にはヒエラポリスという2世紀頃のローマ帝国の都市遺跡がある。



2010年7月3日土曜日

イメージ トルコ 1

日本国内を旅していた頃、岐阜県の関ヶ原を越えたら関西弁が聞こえてきた。
後で調べてみたら、たしかに関ヶ原は東日本と西日本の文化の境界とされており、ここを境に植生も変わるらしい。

前回の三大陸走破の時、アメリカからメキシコに入国した時の激変ぶりに驚かされた。
そこは、北米の白人社会と中南米のメスティソ社会の明確な境界線で、たかが国境をひとつ越えただけであんなにも別世界になってしまうのは、他にあまりないかもしれない(38度線はもっとすさまじいかもしれないが)。

次の旅で「境界」といえば、トルコだろう。
ヨーロッパとアジアという、まったく異質の文化が交じり合うこの国は、一体どうなっているのか?

13世紀末にトルコ人が築いたオスマン帝国は、1453年、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落し、ここをイスタンブールと改称して首都とした。
15~16世紀には、中東からヨーロッパ東部、北アフリカにおよぶ大帝国に成長し、イスラム世界を支配した。

僕の知る限り、3人の作曲家(モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト)が「トルコ行進曲」を作曲している。
これは、17世紀のオスマン帝国による二度のウィーン包囲において、オスマン帝国の軍楽隊の音楽がヨーロッパに影響を与え、18世紀にトルコ趣味が流行したことによるようだ。

1914~1918年の第1次世界大戦でオスマン帝国は敗戦し、イギリスとフランスによって分割された。
1923年、残った領地にトルコ共和国が樹立。イスラム世界では初の政教分離がなされ、西欧化が進められた。

主要民族はトルコ人。他にクルド人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人もいる。
公用語はトルコ語。アラビア語とペルシャ語がベースの言語だが、1928年にアラビア文字が廃止されてアルファベットになった。ブルガリア、ギリシャ、キプロス、ドイツなどにも話者がいる。
99%がイスラム教(大半がスンニ派)。

親日国として有名。

トルコ共和国 (写真提供:トルコ共和国大使館)  

オスマン帝国の領域
オスマン帝国の位置



2010年7月1日木曜日

あと1年

1年後の今日、出発する。
長い・・・
あと1年という歳月は、とてつもなく長い。
毎日、何度も、大陸を旅するイメージが、僕に襲いかかってくる。

自転車で世界を旅する構想を人に話すと、ものすごい偉業(苦行?)に挑戦する人のように思われることが多い。
でも実際には、日本で働きながら生活し続けることの方がはるかに大変だと思う。これは本音だ。

仕事で抱え込むストレスは本当に莫大なもので、常に発狂寸前の精神状態で戦っている人も多いだろう。
「あと何年で辞めて旅立つ」という区切りがあるからこそ耐えるが、一生働き続ける精神力は自分にはないし、仕事に一生を捧げる意味も見出せない。

旅は、自由気ままで、大自然を感じ、快食・快便・快眠で、心にも体にも良い。
旅行中は多くの方に心配をかけて本当に恐縮だが、実は、海外自転車旅行は健全かつ安全なので、心配は無用。
むしろ、日本の日常生活の中に当たり前のようにある異常性を、僕は危惧している。

ともあれあと1年、怪我もせず、病気もせず、発狂することもなく、想定外の出費もなく、無事に出発できることを切に願っている。