2013年12月31日火曜日

ネパールビザ延長 in カトマンズ

ポカラのイミグレーションは閑散としており、ものの数分で手続き完了したが、カトマンズのイミグレーションは非常に混雑しており、数時間待たされ、多大なストレスとなった。

イミグレーション

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営業時間は曜日によって異なる。
ビザ延長申請受付は13~14時で終了するので、早めに行くべし。
イミグレーションのすぐ隣にコピー屋あり。

必要なもの
・パスポート
・パスポートの顔写真ページのコピー1枚
・パスポートのビザページのコピー1枚
・顔写真1枚
・手数料

1.申請用紙に記入し、左の申請受付窓口に並ぶ。
行列ができており、数十分~1時間待つ。
係員の対応はトロくて効率的でもなく、イライラさせられる。

2.受理されたらピンクの紙を受け取り、右の支払い窓口に並ぶ。
行列ができており、数十分~1時間待つ。
係員の対応はトロくて効率的でもなく、イライラさせられる。
支払いはドルではなくルピーで。

3.受け取りは14時から。
事務室入口付近でなんとなく待ち、中から係員が出てきたら、ピンクの紙と引き換えにパスポートを受け取り、完了。


Kathmandu, Nepal



カラパタール トレッキングinfo

必要なもの
・TIMS(Trekkers Information Management System) Registration Card
カトマンズの観光局(Nepal Tourist Board)で申請。
顔写真2枚、1992ルピー(2105円)、所要数分。
・サガルマータ国立公園入場料
3000ルピー(3171円)、観光局でも、国立公園手前でも支払い可。

ルート上の各地にチェックポストがあり、提示を求められる。

ガイドは義務付けられていない。

観光局(Nepal Tourist Board)

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日~金 10:00~16:00

観光局で各種地図が無料でもらえる他、カトマンズ市街の書店でエベレストトレッキングの良質な地図が300ルピー(317円)ほどで入手できる。

カトマンズからジリという村までバスで行き、ジリからルクラまで歩くことも可能だが、1週間前後かかる。
カトマンズから飛行機でルクラに行き、ルクラからトレッキングをスタートするパターンが多数派。
飛行機のチケットはカトマンズの旅行会社やホテルでも手配できる。
片道15800ルピー(16714円)。
フライトは天候に左右されやすく、欠航が多い。

コースは全行程、車両の通行が不可能な道で、人と家畜だけが通れる。
生活物資は人力か家畜によって運ばれるため、物価は高い。
数kmおきに村があり、村には宿、レストラン、売店がある。
キャンプも可能だが、宿代はどこも200ルピー(211円)前後と安いため、テントは不要。
宿の毛布は薄いので、寝袋は必要。
食事代は高いが、軽量化を優先して、調理器具は不要。
シャワー、充電、Wi-Fiは別料金のところが多い。

トラブルなくスムーズにいけば、トータル12日ぐらいのコース。

僕の場合
カトマンズ→ルクラ→ゴラクシェプ 6日
ゴラクシェプで体調崩して連泊 4日
ゴラクシェプ→ルクラ 7日 (下りはふつう3日ほどらしい)
ルクラで飛行機待ち 2日
ルクラ→カトマンズ 半日
計20日

春についてはわからないが、秋~冬に関しては、11月下旬~12月上旬がベストシーズンと思われる。
本格的な冬に突入する直前で、寒さはさほど厳しくはなく、晴天率も高く、トレッカーも多くはない。
ハイシーズンである10月は、狭いトレッキングコースがたくさんのトレッカーで混雑し、宿も満室になることが多いらしい。
夏は天気が悪く、ヒマラヤが見える確率は低いようだ。


Kathmandu, Nepal



2013年12月30日月曜日

カラパタール 7

ルクラに着いたのが昼頃。
フライトスケジュールは調べていないが、運が良ければ今日カトマンズへ帰れるかもしれない。
しかし空港で聞いてみたら、今日は風があるので欠航だそうだ。

ルクラの空港は山の中で、滑走路も異様に短い。
飛行機は15人乗りの小型機で、ちょっとでも天候が不安定だと、飛ばない。

仕方なく、ルクラの宿でムダに1泊。

翌朝。
晴天。
少し風が吹いているが、そよ風程度。
空港が開くのは6時半で、開くのと同時に入場。
しかし、チェックインカウンターには誰もおらず、状況がよくわからないまま、待つ。

空港内も暖房などなく、外とほぼ同じ寒さ。
他にも旅行者がたくさんいるが、皆寒くてじっとしていられず、空港内を歩き回ったりしている。

荷物用のはかりがあって、それに乗ってみた。
最大限に厚着して、重たいトレッキングシューズを履いた状態で、67kgしかなかった。
やっぱ痩せすぎだ。

数時間待って、ようやくチェックインカウンターに係員が現れ、チェックインしてチケットがもらえた。
よし、なんとか乗れそうだ。

しかし、そこからがまた長かった。

建物内はあまりに寒いので、外の日向に移動して待機するよう、誘導された。


時々ヘリがやってきて、客を乗せて飛び去っていく。
ヘリなら、多少風が吹いても飛べるみたいだ。

昼頃、客たちが空港を出てゾロゾロと村の方へ歩いて行った。
もしやと思い、係員に聞いてみたら、本日も欠航だそうだ。

ひどいもんだ。
朝から寒い中、客を6時間も待たせておいて、何の状況説明もなく、何のケアもなく、空港使用税なるもの(200ルピー)も払わせておいて、こちらから確認して初めて欠航と発覚。

またムダに1泊。

最大の不安は、所持金が残り少ないということだ。
ルクラにはATMがない。
この程度の風で飛ばなかったら、いつまで待っても飛べないぞ。
明日も明後日も?
無一文になったらどうすんの?

ああ、昨日はちょっといいカフェに入って、カフェラテ2杯とエベレストバーガーを平らげてしまった。
バカなことをしたな。
もう贅沢は禁止。

唯一の救いは、宿泊費が安いということだ。
ここがもし1泊1000円とか2000円とかする国だったら、即終了だ。
(ただし宿泊費以外の物価は高い)

翌朝。
晴天。
風強し。
こりゃまたダメだな、と思いながらも一応6時半に空港入り。

ふたりの日本人と出会った。
どちらも単独長期旅行者で、ユウスケ君とユウキ君。
昨日はほとんど誰ともしゃべらず、ひとりで震えながら耐え忍んでいたが、今日は日本語で話をしながら、この苦痛をまぎらすことができる。

帰りたい。
早く帰りたい。
暖かいところに。
カトマンズに着いたら、まずATMに行って現金をドッサリおろして、それから和食屋に直行して、贅を尽くして食いまくろう。
スプライト飲みたいよね。
シャワー浴びたいね。
洗濯したい。
ネットやりたい。

3人でそんな話ばかりして、夢想にふけった。

本当に、下界が恋しい。
文明と物質にまみれたいよ。

リチャードというオーストラリア人が、僕らに「ヘリに乗らないか?」と話を持ちかけてきた。
彼はもう4日も飛行機を待ち続けている。
今日も、この風だと飛ばないのは明白。
ヘリなら飛べるが、6人乗りなのでなんとかピッタリ人数を集めたいという。

ヘリの相場は、ひとりUS$250~300と聞いた。
しかしリチャードは交渉上手なのか、航空会社の人にUS$180まで値切らせた。
もともと飛行機がUS$160で、キャンセルすれば全額ではないが返金される。
となると、いつ飛ぶかわからない飛行機を待ち続けるより、ちょっと料金上乗せしてヘリに乗って確実に帰る方が、ずっと魅力的だ。

ていうか、航空会社の方でこういう案内をしろよ、と思う。
皆、帰りたくてしょうがないのに何日もムダに滞在して、航空会社はそれを知っていながら客を完全放置。
飛行機欠航→キャンセル→返金→ヘリの案内、とスムーズにスピーディに手続きできれば、初日に帰れたかもしれない。
あるいは、こんな頼りない飛行機は廃止して、すべてヘリにすべきでは?
もちろん料金はもっと安くできるはず。

グチはさておき、現実的な問題。
僕の全所持金が3000ルピー(3185円)を切っており、ヘリ代を払うことができない。
飛行機代の返金はここではできず、カトマンズでチケットを買ったところでしかできないらしいが、仮にここでできたとしてもヘリ代に及ばない。
ユウキ君は、ギリギリ払えるらしい。
ユウスケ君は、隠し財産をかき集めれば、僕の分を立て替えることができるという。
マジですか!?
僕はユウスケ君に頭を下げて、甘えさせてもらうことになった。

はあ、恥ずかしい。
38歳にもなってこんな旅してちゃ、ダメだよね。
ユウキ君は大学を卒業したばかりで、いかにも若々しい。
ユウスケ君の年齢はまだ聞いていないが、僕より少なくとも10歳は若そうだ。
・・・38歳。
世の38歳たちは、どんな旅をするのだろう。
若いふたりに無償でヘリ代をプレゼントするぐらいの太っ腹でも不思議ではない年齢だ。

どこからともなくカップルが現れて、ちょうど6人そろって、我々はヘリでカトマンズに帰ることが確定した。
しかし、午後から天気が急変し、雲が出てきた。
時間がたつにつれて雲は分厚くなり、素人目に見てもこれは無理だろうとわかった。
16時半、結局この日はヘリも飛ばず。
10時間待ちはこたえた。

またムダに1泊。

ユウスケ君、ユウキ君、リチャード、僕、の4人で同じ宿に泊まることにした。
もともと600ルピー(637円)の部屋だが、またリチャードの強引な交渉術で200ルピー(212円)に。
2人で1部屋をシェアしたので1人100ルピー(106円)ですんだ。
リチャードたくましいな。
実際、相場は200ルピーなので、600は高すぎるなと思った。

翌朝。
晴天。
微風。
今日こそは、と期待してまた6時半に空港へ。
リチャードは「わかるもんか」と慎重だ。
彼は今日で5日目、しかもホラ吹きネパール人たちに翻弄され続けて、疑心暗鬼になってしまうのも無理はない。
でも今日はきっと飛ぶよ。

しばらく待たされてじらされた後、ついに我々のヘリが現れた!


人生初のヘリということもあり、一同興奮して乗り込む。




飛んだ!
本当に飛んだ!
帰れるんだ!





1時間弱で、無事カトマンズに帰還。

計画通り、脇目もふらずATM→和食屋!


http://jp.bloguru.com/yusuke

晩飯も一緒に、モモ屋さんで。


この喜び。
この幸福感。
かれらに出会えてよかった。
ひとりだったら、今頃まだ空港で震えながら待ち続けていただろう。
感謝!


Kathmandu, Nepal



2013年12月29日日曜日

カラパタール 6

ロブチェの山小屋で寝込んでいる間も、日中は数時間ごとに従業員が激しくドアをノックしてくる。
うるせえなー。
喉が涸れているので、声で応答することもできない。
ゆっくり起き上がってドアを開ける頃には、すでにいなくなっている。
1時間に1回ペースで尿意をもよおしてトイレに行くのも、昼夜を問わず続いている。
食欲はない。

そんなこんなでも、少しずつ回復しているように感じたが、それでもひとりで歩くのはまだ危険と判断し、ここでポーターを雇うことにした。
料金は、1日につきUS$30。
2日間、お願いすることにした。
「くれぐれも、スローペースで頼むよ」と念を押した。

天気は崩れ、雲の中を歩く。
雲の水分が髪や服に付着し、凍って結晶化する。
標高差を考慮しても、行きに比べたら確実に寒くなり、本格的な冬の到来を感じた。
これからカラパタールへ向かうトレッカーもいる。
さぞかし寒いだろう。
いや、今は他人の心配より自分の心配。

帰りは下りだから楽だろう、と思われるかもしれないが、それは大間違いで、登りよりむしろ下りの方がしんどい。
ふだん自転車をこいでばかりいる僕の足の筋肉は、ガチガチに固くなって柔軟性がなく、下る時に垂直方向に負担がかかると、特に太ももの筋肉がひどく痛む。
健常な時でも、調子良くトントンと下ることができない。
と、こんな細かい説明をポーターにすることもできず、下りでゼーゼー言っている僕を彼は不思議そうにみつめる。

聞いた話では、シェルパたちにも出世のステップがあるようだ。
最初は荷物運びのポーターから始めて、次はガイド、ゆくゆくはロッジの運営や旅行会社の経営へとのし上がっていく。
だから、ポーターは若者が多い。
ただでさえ屈強でタフなシェルパ、特に若者は力があり余っているようで、僕の超スローペースに合わせるのは退屈で苦痛のようだ。
休憩は、少なくとも3分ぐらいは座っていたいのだが、こいつは1分30秒ぐらいで僕を立たせて行かせようとする。

フェリチェ(標高4240m)で1泊。
ポーターも同じ山小屋で泊まる。
山小屋はとても寒い。
ダイニングには、唯一の暖房システム、暖炉がある。
寝るまでは部屋に行く気になれず、トレッカーもシェルパも皆、暖炉に集まってひたすら体を暖める。
ちなみに暖炉の燃料は、ヤクのフン。

日本人トレッカーがひとりいて、話をした。
僕はふつうに会話できるぐらいには回復していた。
食欲も出てきて、まともに一食食べた。
物価が高いので、食欲がない方が金銭的に都合良かったのだが。

ここは別料金でホットシャワーを浴びれる。
もう何日もシャワーを浴びていないし、洗濯もしたかった。
しかし、なんとなく嫌な予感はしていたのだが、2分ほどで突然水が止まってしまった。
タンクの水が尽きたのだろう。
髪を洗っただけで、体も洗えていないし洗濯もできないまま、タオルで体を拭き、暖まるどころか逆に冷えた。
金返せ。

翌日。
うっすらと雪化粧した山景色、凍った川。
写真を撮ろうとすると、ポーターが若干煽り気味に僕をみつめてくるし、僕も手がかじかむので、あまり多くは撮れなかった。















テンボチェ(標高3860m)に到着。
ポーターとの契約はこれで終了。
だいぶ煽られはしたが、常に僕を気遣ってくれたし、よく助けてくれた。
感謝。

テンボチェの宿では、Wi-Fiが使えた。
Wi-Fiも充電も別料金だけど、ネットをやりたかった。
フェイスブックで、写真とメッセージを放出した。

体力の回復度はまだ40%ぐらいだけど、もうひとりで歩ける。







再びダンフェ。




体暖まるスープモモ。




ナムチェ(標高3440m)に到着。
もう所持金が残り少ない。
ナムチェには両替屋があり、いざという時のために所持していたドルとユーロをすべてルピーに替えた。

翌々日。
ついに、スタート地点でありゴールでもあるルクラ(標高2840m)に到着。
一時は馬やヘリも考えたが、やはり自分の足で歩いてきてよかったなと感じた。
体力の回復度は50%ぐらいで、歩くスピードはまだ老人レベルだが、ここまで来ればもう安心。
あとは、飛行機でカトマンズへ飛ぶだけ。


Kathmandu, Nepal



カラパタール 5

目的を達成して、見るべきものも見て満足して、さああとは下山するだけだ、という日の朝、異変は起きた。

手足がガクガクで、コントロールがきかない。
まともに立てない、歩けない。
部屋を出て、10mほど離れた共用トイレに行くにも、酔っ払いのようによろめきながら、必死でたどり着く。

部屋に戻ると、ベッドの上に誰かがいる。
それが布団の塊だと認識するのに、4秒ほどかかった。

なんだ、ただの幻覚か。

布団の模様や、壁の木目模様がパラパラと剥がれ落ちて、人の姿となって空中でうごめいている。

にぎやかだな。

体に力が入らず、倒れ込むようにして眠りに落ちる。

ひどい夢を見る。
もともと夢というのは不条理なものだが、高地で見る夢は特に、炸裂している。
起きている時は意識的に深呼吸することで平静を保てるが、睡眠中はそれができないので、息を切らせながら、心臓を高鳴らせながら、シュールかつアヴァンギャルドきわまりない、奇ッ怪な夢の途中で目が覚める。
一度目が覚めると、その後はなかなか眠れない。

ドアを激しくノックする音。
「Hello! How are you sir!?」
「・・・Very bad・・・」
「Ha!?」
「・・・Very bad,,, I can't move...」
「Do you want lunch?」
「No.」
食欲はまったくないが、喉が乾くので、お湯だけもらう。

1時間に1回のペースで、尿意をもよおしてトイレに行く。
大量に水を飲んだわけではない。
内蔵の働きが、おかしくなっている。

いわゆる高山病の症状とは違うが、それでも単純明快。
脳も筋肉も内蔵も、全身で、酸素が不足しているのだ。

ヤバイ。
これじゃ帰れない。

そういえば来る途中、「Horse Riding Service」という看板を何度か見た。
馬に乗せてもらって、下山できるかもしれない。
山小屋の従業員の若いにいちゃんに聞いてみたら、馬の手配は可能だが、ここからほんの数km先のフェリチェという、歩いて1日で行ける村までUS$250もするそうだ。
ナムチェかルクラまで行ってくれるならまだしも、そんなわずかな距離であまりに高すぎるし、そもそも僕はそんなに現金を持ってきていない。

体調はまったく良くならないまま、ゴラクシェプで3泊した。
いや、4泊したかな。
わからない。

山小屋のにいちゃんから、「明日の朝7時にチェックアウトしろ」と通告された。

翌朝。
ゴラクシェプには3軒の山小屋があり、隣に引っ越そうとした。
しかし隣の山小屋の、これまた若造が、無愛想に「Room is full!」と突き放す。
うそつけ、この野郎。
満室のわけないだろ。

もう1軒の山小屋へ。
山小屋へ近づくと、おじさんが出てきて、僕の手をとって中へ入れてくれた。
「どうしたんだ!? 危険な状態だな。ヘリを呼ぶか?」

車の通行が不可能なこの山奥では、脱出方法は3つ。
歩くか、馬か、ヘリか。
ヘリで帰る外国人トレッカーはけっこう多く、しょっちゅうヘリが行き来している。
あらかじめ保険に入っていればUS$300ほどでヘリでカトマンズまで帰れる、という噂は聞いていた。
僕は保険に入ってないんだけど、いくらぐらいかかるのかと聞いてみたら、US$4500だという。
へえ、US$4500か、ちょっと高いけど乗っちゃおうかな。

・・・

へ!?
ちょ、ちょ、ちょっと待って。
US$4500(47万円)!?
ムリムリムリ。

「ムリなら、日本大使館へ連絡して助けを求めた方がいい。」
「いや、そういうのも勘弁してほしい。」
「なら、自力で帰るしかないな。」
「ここに泊めてくれませんか?」
「ダメだ。ここに長くいてはいけない。少しずつでもいいから、とにかく低いところへ行くしかないよ。」

おじさんは栄養ドリンクをつくってくれて、半ば強引に僕に飲ませた。
たまたまそこに居合わせたオーストラリア人カップルが医療関係の人で、僕の病状を聞き、高山病の薬を飲ませてくれた。
それから、中国人トレッカーが、惜しげもなく僕にスニッカーズやハチミツなどをどっさりくれた。
物価の高いこの山奥では、スニッカーズ1本で何百円もするはずだ。
この中国人が、雇っていたネパール人ポーターに頼んで、途中まで僕の荷物を持って付き添わせるという。
なんてやさしい人たちだ。

しかし、どうだろう。
荷物を持ってもらって手ぶらだとしても、ここから一番近い村ロブチェまで、歩けるか?
自分の体に聞いてみると、明らかに答えは「ノー」。

それでも、この状況だと、行くしかなさそうだ。
強引に栄養ドリンクを飲ませられながら1時間ほど休憩して、出発。

今の自分の戦力は、80~90歳の老人レベル。
歩くのが遅いとかいうレベルではなく、かろうじて倒れないでいられる、ぐらいヨロヨロ。

荷物を持ってくれる若いポーターは、僕のあまりの遅さに、じれったそうにしている。
しばらくして、「今、おれの兄が死んだ、って友達から電話があった。急いで行かなきゃならない。」と言い出した。
「いいよ、行きなよ。」
「じゃあ」
いいんだよ、別にそんなウソつかなくても。
こっちは君にお金を払ってるわけじゃないし。
若者のウソなんて簡単に見抜けるし、インド人とネパール人がどれだけウソつきなのかも、よく知っている。

またしばらくして、通りすがりのドイツ人トレッカーが僕に付き添ってくれた。
彼、パウルは60すぎの初老だが、なんとカラパタールに来るのは6回目だという。
パウルは脳ガンを抱えていて、何度か手術をしている。
「ドイツにいる時は脳ガンで、ヒマラヤに来ると空気が薄くて、いつだって頭痛がする。」
と冗談みたいなことを言う。
彼も平均的なトレッカーに比べたら格段にスローペースで、数十m進むごとに、「ここにいい岩がある。腰かけて休もう。」と言ってくれる。
決して急かそうとせず、僕のペースに合わせてゆっくり進んでくれる。
お茶を飲ませてくれたり、飴をくれたり、常になにかしら世話を焼こうとする。
底抜けにやさしいおじさんだ。

ロブチェまでわずかな距離のはずだが、もうだいぶ日が傾いている。
僕の体力は、すでに限界を超えていた。
体全体がしびれて、感覚を失っている。
自分が帽子をかぶっているのか、サングラスをかけているのか、手袋をしているのか、感覚がないのでわからない。

ついに動けなくなり、座り込んでしまった。
パウルには先に行ってもらい、ロブチェでポーターを頼んでここまでよこして助けてもらおう、ということになった。
「動いてはいけないよ。ここで待っているんだよ。」

太陽が山に隠れると、一気に冷え込んだ。
確実にポーターが助けに来てくれるという保証はないし、来てくれるとしてもどれだけ時間がかかるのか、わからない。
暗闇の中、突き刺すような冷たい空気、ガタガタ震えながら、ひとりで助けを待つ。

危機的状況なら今まで数知れず経験してきたけど、今回は一味違ったヤバさを感じる。
今日が命日、なんてなりませんように。
いやいや、こんなところで死んでたまるか。

1時間後、遠くから「ジャパニ! ジャパニ!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
来てくれた!
僕は喉も涸れていて大きな声が出せなかったので、ライトを振ってそれに応えた。

ポーターは、素手に素足にサンダル。
このクソ寒いのに、なんつう軽装。
ライトも何も持っていないようだ。

彼に導かれながら、力を振り絞ってゆっくりゆっくり進み、19時頃、ようやくロブチェの山小屋に到着。
パウルが笑顔で迎えてくれた。
ありがとう、本当に助かった。

ロブチェの標高は4910m。
ゴラクシェプからたった130m高度を下げたにすぎない。
進んだ距離もごくわずかだが、最も長く困難な1日であった。

僕はまた食欲もなく、何もできず、力尽きてベッドに倒れ込み、2日間寝込んだ。


Kathmandu, Nepal



2013年12月28日土曜日

カラパタール 4

エベレスト街道最後の村、ゴラクシェプ(標高5140m)。


中央がプモリ(7165m)、その手前の黒い丘がエベレスト街道の最高到達地点カラパタール。


ゴラクシェプの宿に荷物を置いて、さっそくカラパタールへ。




まだここからはエベレストは見えない。


おっ、見えてきた。


やっぱ地味だな。


エベレスト(8848m)。






カラパタール頂上までも、長く険しい道。


こんなところにネズミ!?


ようやくゴールが見えてきた。






ルクラから6日目、カラパタール登頂(標高5550m)。


頂上は自由に動き回れないほど狭く、他のトレッカーもいるので独占して写真を撮ったりするのは難しい。
ベストシーズン終わりかけの閑散としたこの時期でさえこうだから、ハイシーズンはさぞかし混雑するのだろう。

プモリをバックに。




王者エベレストの真上に月。




まぎれもない「世界最大」が目の前に。




できればカラパタールでエベレストの夕焼けを見てみたかったが、寒かったし、ゴラクシェプの宿までかなり遠いので、あきらめて下り始めた。
しかし、下っている途中で山々が黄昏れ始め、その美しさに心を奪われ、しばらく立ち尽くした。





ああ、なんて、なんて、美しい。



すべてを忘れて、ただただ無心に、その美しさにみとれる。



自分はなんて幸せな人間なのだろう。





最後のひとときは、エベレストだけが紅く染まったまま。



最後まで夕日を見続けることができる者。
それが王者の証。


Kathmandu, Nepal