2010年5月29日土曜日

岡山・広島

毎年恒例の、岡山・広島の出張に行ってきた。
ちょっと普通じゃ考えられない過酷なスケジュールなのだが、なんだかもう慣れてきてしまった。

文句や愚痴を言いながらも、遊びに行く元気は残っていて、夜はドライブ&釣りに繰り出す。
逆に言えば、こういう楽しみでもなきゃやってられない。
今回は瀬戸内海の小さな島に行ってきた。

ちなみに僕は、出張の時はいつも炊飯器を持参する。
外食だと一食1000円以上かかってしまう人間なので、出張中も自炊しないと財政が厳しくなるのだ。
調理器具やら米やら釣り道具やらも合わせると、登山用ザックでも収まりきらないほどの大荷物となる。
すごく重い。





2010年5月24日月曜日

言葉の整理

・パレスチナ
元は「ペリシテ人の地」という意味。
ペリシテ人はBC13世紀頃から地中海とヨルダン川に挟まれた地域に住み着き、ヘブライ人の敵であったようだが、聖書以外の文献には登場せず、その後歴史から姿を消す。
古代よりめまぐるしく国名が変わるため、便宜上この地方を「パレスチナ」と呼ぶ。
現在はイスラエル国内のパレスチナ自治区(ヨルダン川西岸地区とガザ地区の2ヶ所)を指す。
主にアラブ人が住んでおり、分離壁によって隔絶されている。

・パレスチナ人
イスラエル建国以前あるいはシオニズム以前からパレスチナに住んでいたアラブ人のこと。
ユダヤ人に追放されて国外に流出した者も含まれる。
ペリシテ人とは関係ない。
現在の人口は1088万人で、うち400万人がパレスチナ自治区、125万人がイスラエル領、324万人がヨルダンにいる。
宗教はイスラム教で言語はアラビア語。
同じパレスチナ人でも、ヨルダン川西岸地区は穏健派ファタハで、ガザ地区は過激派ハマスで対立している。

・アラブ人
主にアラビア半島や西アジア、北アフリカなどに住み、アラビア語を話し、アラビア文化を受容している人。
「アラブ人=イスラム教徒」という認識でもだいだい差し支えないと思うが、アラブ人でもなかにはキリスト教徒、ユダヤ教徒がいる。中東イスラム圏でもトルコ人などはアラブ人とはいわない。

・ヘブライ人
元は「川の彼方より来た者」という意味。この場合の「川」はユーフラテス川を指す。
この呼称は異民族がつけたもので、ヘブライ人は自分たちのことを「イスラエル」と呼んでいた。
ユダヤ教を確立した後は「ユダヤ人」と呼ばれるようになる。
かれらの話すヘブライ語は、世界各地に離散したことで話者が減り、20世紀初頭にはヘブライ語話者はわずか10家族となったが、シオニズムによって再生され、現在のイスラエルの公用語はヘブライ語とアラビア語となっている。一度廃れかけた古代語が復活した例は歴史上他にない。
アラビア語と同じく、右から左に書く。文字はこんな感じ→מדינת ישראל

・ユダヤ人
旧約聖書によると、アブラハムの息子イサクにはヤコブという息子がいた。神はヤコブとその子孫にカナンの地(パレスチナ)を与えると約束し、ヤコブはこの後「イスラエル」と改称した。ヤコブの12人の子が氏族となり、古代イスラエル王国をつくった。12人のうち4番目の息子がユダであり、「ユダヤ」は「ユダの地」という意味である。ちなみに新約聖書に登場する裏切り者のユダはまったくの別人。
アブラハムのもうひとりの息子イシュマエルの子孫はアラブ人となった。
現在の定義では、ユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し、他の宗教を一切信じない者」とされている。形質的な区別ではない。

世界のユダヤ人の総人口は1300~1400万人で、うち527万人(40%)がアメリカにいる。
アメリカの長者番付に名を連ねる政治家、実業家、学者、音楽家などにユダヤ人が多く、かれらはイスラエルに多額の献金をしている。マスコミの有力者にもユダヤ人が多く、イスラエル偏向の世論をつくっていることも考えられる。
イスラエル建国の際にもアメリカの強力な圧力があり、建国以来アメリカはイスラエルに毎年30億ドルという突出した資金援助をしている。
人口の少ないイスラエルがアラブ諸国との戦いにことごとく勝ち続けたのも、アメリカという後ろ盾があったからである。

個人的に尊敬するユダヤ人またはユダヤ系
アルバート・アインシュタイン(物理学者、ドイツ→アメリカ)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(哲学者、オーストリア)
ジークムント・フロイト(精神分析学者、オーストリア)
カール・マルクス(経済学者、ドイツ)
ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアニスト、ウクライナ→アメリカ)
ユーディ・メニューイン(ヴァイオリニスト、アメリカ→イギリス)
レナード・バーンスタイン(指揮者、アメリカ)
スティーヴ・ライヒ(作曲家、アメリカ)

その他の著名ユダヤ人またはユダヤ系
ブルームバーグ(ブルームバーグ創業者、ニューヨーク市長)
メイヤー(ワシントンポスト創業者)
ロイター(ロイター通信創業者)
バルマー(マイクロソフト社長)
デル(デルコンピュータ創業者)
リーヴァイ・ストラウス(リーヴァイス創業者)
ローレン(ラルフローレン創業者)
ラザラス(トイザラス創業者)
シュルツ(スターバックス社長)
ワーナー(ワーナーブラザーズ創業者)
フォックス(20世紀フォックス創業者)
スピルバーグ(映画監督)
キューブリック(映画監督)
ピューリツァー(新聞出版者、ジャーナリスト)
プルースト(作家)
ザメンホフ(言語学者)
ノイマン(数学者)
フランクル(精神科医)
フッサール(哲学者)
メンデルスゾーン(作曲家)
ビゼー(作曲家)
マーラー(作曲家)
ルビンシュタイン(ピアニスト)





2010年5月23日日曜日

パレスチナをめぐって 5

念願のユダヤ人国家が実現した翌日、これを不服とする周辺アラブ諸国(エジプト、ヨルダン、レバノン、シリア、イラク、後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも加わった)が侵攻し、中東戦争が勃発した。
イスラエル側には主にアメリカ、アラブ側には主にソ連がつく代理戦争でもあり、3宗教にとっての聖地であるエルサレムの帰属問題が絡んだ宗教戦争でもある。

・1948年第1次中東戦争
アラブ兵15万人に対してイスラエル兵3万人という圧倒的な差にもかかわらずイスラエルが勝利した。80%の土地をイスラエルが占領し、残り20%はヨルダンが占領した。
・1956年第2次中東戦争
エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことに対して、株主であった英仏がイスラエルを支援してエジプトとの戦争を扇動した。イスラエル軍はエジプトのシナイ半島を占領し、英仏軍はスエズ運河に上陸したが、国連の停戦決議により、英仏は撤退した。これがPKOの起源となった。
・1967年第3次中東戦争
イスラエルが奇襲をしかけ、ヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプト領のガザ地区およびシナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領。イスラエル領は建国当時の4倍にまで拡大された。
1973年第4次中東戦争
エジプトとシリアが失地回復のため逆襲、イスラエルの不敗神話が崩壊した。
この戦争でアラブ諸国はイスラエルを支援する国に対して石油戦略を発動し、世界的なオイルショックを引き起こした。

・1979年イスラエルエジプト平和条約
アメリカの仲介のもとで和解が成立し、シナイ半島が返還された。
この時のエジプト大統領サダトは、後に同じエジプト人のイスラム復興主義者によって殺された。
・1982年第1次レバノン侵攻
イスラエルは、アラファトをリーダーとするPLO(パレスチナ解放機構)の拠点となっていたレバノンに侵攻し、PLOを追放した。
・1987年第1次インティファーダ
パレスチナ人による市民蜂起。最新の兵器を使うイスラエル兵士に対して、パレスチナの少年が石を投げて戦う姿が世界に報道された。1500人が死亡。
・1993年オスロ合意
PLOを母体とするパレスチナ暫定自治政府が成立し、ヨルダン川西岸地区とガザ地区の行政権が与えられた。
この時のイスラエル首相ラビンは、後に同じユダヤ人の和平反対派によって殺された。
・2000年第2次インティファーダ
イスラエル首相シャロンが1000人の武装側近を率いて、エルサレムにあるイスラム教のモスクを強行訪問したことに対して、パレスチナ人が暴動を起こした。5400人以上が死亡。
・2006年第2次レバノン侵攻
レバノンのイスラム武装組織ヒズボラが、イスラエルとの国境を侵犯したことに対して、イスラエルがヒズボラをレバノンに追跡、侵攻した。一般市民や外国人旅行者を巻き込み、300人以上が死亡した。

・2008~2009年ガザ侵攻
PLOと決裂してガザ地区を武力制圧したイスラム原理主義組織ハマスの弱体化を狙って、イスラエルはガザ地区に大規模な空爆と市街戦を繰り広げた。多くの一般市民を含む1300人(うち400人が子供)が死亡した。4000軒の一般家屋が全壊、国連が運営する学校も砲撃され、そこに避難していた付近の住民も死亡した。

現在、ガザ地区では40%の土地を6000人のユダヤ人が占有し、残りの60%に150万人のパレスチナ人がひしめきあっている。難民キャンプの人口密度は世界最高といわれている。
道路も海も封鎖され、パレスチナ人にガザを出入りする自由はない。
水や電気、物資の供給はイスラエルによって厳しく制限されている。

現在の国内外のパレスチナ難民の総数は、550万人以上。

 


パレスチナ領(緑)の変遷
 







2010年5月22日土曜日

パレスチナをめぐって 4

第1次大戦中、莫大な戦費を必要としていたイギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を約束することで、ユダヤ人豪商ロスチャイルド家から資金援助を得た。他方、イギリスはアラブ人に対して、パレスチナにおけるアラブ人国家の建設を約束することで、オスマン帝国に対する武装蜂起を呼びかけた。
こうした「二枚舌外交」を使い、1917年にイギリスはオスマン帝国を破り、パレスチナはイギリスの統治下となった。

ドイツおよびドイツの占領地では反ユダヤ主義が激化し、第2次大戦中にナチスは600万人のユダヤ人を虐殺した。
名目は「民族的純血の厳守」すなわち民族浄化であったためユダヤ人だけでなく、ロシア人、セルビア人、スラブ人、黒人、障害者、同性愛者、反ナチス運動家なども合わせると犠牲者は900万~1100万人ともいわれている。

この前後から、シオニズムが高まっていた。
シオニズムとは、世界各地に離散して迫害され続けたユダヤ人が、故郷のシオン(エルサレム)に帰って祖国を再建しようとする運動。
当然、すでにそこに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)は抵抗し、イギリスも移民の制限をしたが、数十万人のユダヤ人がパレスチナになだれ込んだ。

大戦後、ユダヤ人とアラブ人双方が独立を要求してイギリスと衝突。各地で両者によるテロ、虐殺、暗殺が相次いだ。
イギリスは統治権を返上してこの問題を国連に委ねた。
1947年にはパレスチナにはアラブ人が131万人、ユダヤ人が63万人いた。
国連は、56.5%の土地をユダヤ人に、43.5%の土地をアラブ人に与え、エルサレムを国際管理とする決議を下し、1948年イスラエルが建国された。



2010年5月19日水曜日

パレスチナをめぐって 3

661年にシリアで始まったウマイア朝は、イスラム教の勢力を拡大し、中央アジアから北アフリカ、イベリア半島(現在のスペイン)にまで及ぶ、強大なイスラム帝国を築いた。パレスチナもその支配下となった。
750年にイランで始まったアッバース朝では、海陸ともに交易ルートを充実させ、大規模な国際貿易が行われた。この時代の様子は「アラビアン・ナイト」にも描かれている。
1038年に中央アジアで始まったセルジューク朝では、トルコ人がイスラム世界の実権を握り、勢力を拡大した。

活発な商業が行われた地中海は完全にイスラム世界に組み込まれ、ヨーロッパの内陸に押しやられたキリスト教は、聖地エルサレムの奪回を目的とする十字軍を派遣した。
1096年、第1回十字軍はイスラム教徒4万人を殺害し、エルサレム王国を建てた。
1187年、エジプトの支配者サラディンがエルサレムを奪回。
その後も、第7回十字軍まで奪い合いが続いたが、1291年に十字軍の最後の拠点が陥落し、エルサレムは再びイスラムの支配下となった。

7世紀から16世紀にかけて、巨大な都市文明を築いて最高水準に達していたイスラム文明は、10世紀頃まで素朴な農耕地域であったヨーロッパに強烈なインパクトを与えた。
インドの十進法やゼロの観念はイスラム経由でヨーロッパに伝わり、「アラビア数字」と呼ばれて現在も世界的に使われている(アラビア数字はアラビア語の数字ではなくインドの数字だが、ヨーロッパ人にとってはアラブ人がもたらしたものなのでこう呼ばれた)。
アリストテレスをはじめとするギリシャ哲学も、中国起源の火薬や羅針盤も、イスラム経由でヨーロッパに伝わった。
アルコール、アルカリ、ソーダ、シロップ、シュガー、コットン、パジャマ、ソファーなどの英語も、元々はアラビア語である。特にスペイン語やポルトガル語はアラビア語の影響を強く受けている。

1591年以降は、パレスチナはオスマン帝国の支配下となる。



2010年5月17日月曜日

パレスチナをめぐって 2

BC4年頃にパレスチナで生まれたイエスは、ユダヤ教の一派として活動していたが、他の宗派から反逆者とみなされ、AD30年頃、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑された。
弟子たちはイエスの復活を信じ、イエスこそがメシアであるとするキリスト教が生まれた。
「キリスト」は「メシア」のギリシャ語形である。
弟子たちによってイエスの教えがまとめられ、ユダヤ教の経典が「旧約聖書」、キリスト教の経典が「新約聖書」となった。
度重なる迫害にもかかわらず、キリスト教は広く普及し、392年にはローマ帝国の国教にまでなった。

570年頃にアラビア半島のメッカ(現在のサウジアラビア)で生まれたムハンマド(マホメット)は、610年に天使ジブリール(ガブリエル)から神の啓示を受け、イスラム教を創始した。
この時の啓示の言葉を記した「コーラン」(クルアーン)が、イスラム教の経典となった。
貴族であり、商人であり、軍人でもあったムハンマドは630年にメッカを征服し、やがてアラビア半島全域を統一した。
アラブの諸部族は彼の支配下に入ってイスラム教徒となり、「アラブ世界=イスラム世界」が形成されていった。

すべてのユダヤ人とアラブ人は、最初の預言者アブラハムの子孫であると考えられている。
つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、ともにアブラハムという共通のルーツを持つ。
この3つをまとめて「アブラハムの宗教」と呼ぶこともあり、現在の信者の総計は34億人にもなる。
ムハンマド自身、ユダヤ教とキリスト教はイスラム教に先立つアブラハムの宗教であると認め、根本的にはユダヤ教もキリスト教もイスラム教と異ならないものとしていた。



2010年5月16日日曜日

パレスチナをめぐって 1

ヘブライ人がパレスチナの地に住みついたのはBC1500年頃で、一部はエジプトに移住した。
エジプトでの圧政に耐えかねたヘブライ人は、BC13世紀にモーセに率いられてパレスチナに脱出した。
その際、「十戒」を守ることを条件に脱出を助けたシナイ山の神、ヤハウェ(エホバ)を信仰するようになった。

BC11世紀、ヘブライ人はパレスチナに、エルサレムを都とするイスラエル王国を築いた。
王国はダヴィデ王とその子ソロモン王の時代に最も栄えたが、その死後、北のイスラエルと南のユダに分裂し、北はアッシリアによって、南はバビロニアによって滅ぼされた。
バビロニアに連行されたヘブライ人は、天まで届くバベルの塔の建設に従事させられた。

苦難の生活を強いられたヘブライ人の中に、神の意志を伝える預言者(カリスマ)が現れ、メシア(救世主)の出現を説く信仰が生まれた。
バビロニアから解放されたヘブライ人は、エルサレムにヤハウェの神殿を建て、戒律を定めた。
こうしてヤハウェを唯一神とするユダヤ教が確立され、ヘブライ人はユダヤ人と呼ばれるようになった。

その後もパレスチナでは強国による征服とユダヤ人による独立が繰り返されたが、AD135年にローマ帝国によって完全に制圧され、ユダヤ人は追放された。
それから実に1800年もの間、ユダヤ人は自分の国家を持つことができず、世界中を放浪し、迫害を受けることになる。



2010年5月10日月曜日

イメージ エジプト 2

よく知られているように、エジプト文明はナイル川によって育まれ、四大文明のひとつとなるほど高度に発展した。
ナイル川は毎年7月中旬に氾濫する。この時に上流から肥沃な土壌が運ばれ、農耕に適した土地が維持される。
氾濫の時期を知るため、1年を365日とする太陽暦(シリウス暦)がつくられた(BC3300年頃)。これは現在のグレゴリオ暦の原形であり、また天文学の歴史の始まりともいえる。
氾濫後に農地を元通りに配分するため、測量と幾何学も発展した。
ビールの生産(BC3800年頃)、ワインの生産(BC3500年頃)、ヒエログリフの文字体系の確立(BC3300年頃)、三大ピラミッドの建造(BC2550年頃)、などもエジプト文明の特徴。

国土の90%が砂漠(広義のサハラ砂漠の一部)だが、ナイル川流域だけ豊かなのが上空写真でもよくわかる。


古代のエジプト文明は有名だが、現代のエジプト人は何をして生きているのだろうか?
国の経済を支えているのは、観光業とスエズ運河の通行料。
石油や鉱物もあるが、周辺の国と比べると少ない。

大半がアラブ人。あとは少数のヌビア人、ベルベル人、ベドウィンなど。
90%がイスラム教スンニ派。9%がコプト教(エジプトで独自に発展したキリスト教)。
公用語はアラビア語フスハー(正則アラビア語)。実際に話されているのはアラビア語エジプト方言。

1922年にイギリスから独立。
4度にわたる中東戦争の末、1979年にイスラエルと平和条約を結び、アラブ連盟から追放された。
1989年にはアラブ連盟に復帰したが、1991年の湾岸戦争ではアメリカ率いる多国籍軍に協力した。
敵対したり、寄り添ったりと、政情は安定しない。
アルカイダを中心とするイスラム原理主義が潜伏しており、1997年のルクソール事件では日本人10名を含む外国人旅行者61名とエジプト人警官2名の計63名が死亡、85名が負傷した。
現在もカイロやシナイ半島などで、旅行者を巻き込むテロや誘拐などが絶えない。



2010年5月7日金曜日

イメージ エジプト 1

無事にスーダンを抜けることができたら、世界一長いナイル川(6650km)に沿って地中海まで北上する。
アブ・シンベルやルクソールなどの世界遺産、数多くの失敗ピラミッドなどを見て、そしてギザにたどり着く。
ギザのピラミッドがどれだけすごいものなのか、実際にこの目で見てみたい。
でも、今までの経験上、観光客でごった返すような有名なスポットは居心地が悪すぎて感動できたためしがないので(マチュピチュがその最たる例)、期待しすぎはよくない。
無事にスーダンを抜けることができなかったら、飛行機でカイロに飛ぶことになると思う。この場合は何の変哲もない観光旅行となる。

カイロの東にはスエズ運河がある。
1869年開通。地中海から紅海にかけての163km、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路のショートカットとなる。
もしスエズ運河がなかったら、船は喜望峰経由で周回しなければならない。

アフリカ大陸からアラビア半島を引き裂く紅海は、世界一の透明度ともいわれ、カラフルな魚とサンゴが豊富で、ダイビングのスポットとして有名なリゾートとなっている。
きれいな海は見てみたいが、自転車旅行者はどうもリゾートが苦手で、敬遠してしまう。

アフリカ大陸とアラビア半島の間には、逆三角形のシナイ半島がある。
預言者モーセが、虐げられていたユダヤ人をエジプトから脱出させてシナイ半島に渡り、シナイ山で十戒を授かった、という旧約聖書の「出エジプト」の舞台。
シナイ半島は、古代から様々な国の争奪地であった。
1967年の第3次中東戦争でもイスラエルに占領されたが、1979年にエジプトに返還された。

シナイ半島の東にはイスラエルがある。
この国は避けなければならないので、ヌエバという港町でフェリーに乗り、アカバ湾を渡ってヨルダンへ向かう。

エジプト 地図  エジプトの位置



2010年5月3日月曜日

イメージ スーダン 2

・中国
スーダンを語るうえで、中国の存在は無視できない。
中国国有石油会社の国外進出はすさまじいものがある。イラン、イラク、スーダンなど、アメリカが「テロ国家」と名指しして国交を断絶したスキを狙って攻め込み、まんまと中国はこれらの国の石油採掘権を獲得してきた。
なかでもスーダンは、欧米の企業が内紛を理由に投資を控えてきたこともあって、中国の一人勝ちのようだ(インドの進出も相当なものらしいが)。数万人もの中国人がスーダンに移住し、大規模な開発が進められている。
中国のおかげでスーダンの経済は急成長しているが、スーダン政府は石油で得た収入で大量の兵器を中国から購入している。ダルフールで使用される兵器のほとんどが中国製である。
中国は、ダルフールへの国連軍の派遣には拒否権を行使し、スーダンへの制裁に関する決議には棄権をしている。紛争が終わってしまったら兵器が売れなくなる、ということだろう。
スティーヴン・スピルバーグは、中国はスーダンへの影響力を行使して平和維持軍の受け入れを促すべきだ、という書簡を胡錦濤に送った。スピルバーグは北京オリンピックの芸術顧問に要請されていたが、中国政府の対応を批判して、これを辞退した。(アメリカこそ世界最大の兵器輸出国なのだが。)
先月、4月20日のニュースによると、中国外務省は、「スーダンの平和プロセスの推進に引き続き積極的で建設的な役割を果たしたい。」と言った。いったい誰がこんな言葉を信じるだろうか?
人命や人権より国益を優先するという意味で、中国とスーダンの思考回路は同じである。それは、チベットやウイグルに対する中国政府の仕打ちを見れば明らかである。

・バシル大統領
1989年にクーデターを起こして権力を掌握して以来、バシルは独裁体制を断行してきた。
2009年、ICC(国際刑事裁判所)は、ダルフールにおける人道に対する罪でバシルに逮捕状を出した。
しかし、バシルはICCなど認めていないと逆に非難し、捕まる心配のないICC非締約国を周遊した。
中国やロシアという強大な後ろ盾があり(ロシアもスーダンを支援している)、アメリカもこれらの国との全面衝突は避けるため、バシルを逮捕できる可能性は低い。
バシルは、捜査に協力したと言いがかりをつけて国際支援団体を追放した。470万人がNGOの支援を受け、難民キャンプでは270万人が生活しているにもかかわらずだ。これも行為としてはジェノサイドに等しい。
そして先月、24年ぶりに大統領選挙が行われ、バシルが再選された。(日本のメディアは「バシル氏」と呼ぶらしい。)
公正な選挙が行われる環境であるはずもなく、明らかな不正、政治弾圧、人権侵害、ボイコットがあったと、国内外の選挙監視団から報告があった。
現在、各地で混乱、衝突が起きている。
ちなみにバシルは、「世界最悪の独裁者ランキング」で2005年から毎年、金正日と1、2位を争っている。
(2009年はジンバブエのムガベが1位に躍り出た。)
またスーダンは、「世界失敗国家ランキング」で2005年から毎年ワースト3にランクインしている。
(ワースト10のうち7国がアフリカ、3国が中東。)

最悪の大統領といえば、4月28日のニュースによると、南アフリカのズマ大統領が過去にレイプ経験があることを公表した。被害の女性はHIV感染者だったが、「すぐにシャワーを浴びたので大丈夫だった。」と堂々と言ってのけた。
アフリカのこのぶっ飛んだ常識の違いを、どう解釈したらいいだろうか?
南アフリカでは、男性の27%がレイプ経験者で、540万人がHIVに感染している(世界第1位)。
HIV感染率の高い国トップ10はすべて、アフリカのサハラ以南にある。



2010年5月1日土曜日

イメージ スーダン 1

面積は日本の6.6倍、アフリカ最大の国土。
アラブ系39%、アフリカ系黒人52%。
公用語はアラビア語と英語。
イギリスとエジプトの共同統治であったが、エジプトはイギリスの保護国であったため、実質的にはイギリスの支配下にあった。
1956年に独立。

・南北内戦
アラブ世界とブラック・アフリカをまたぐスーダンでは、独立以前から「北部アラブ人vs南部黒人」の対立があった。もっともこれはイギリスの分割統治、つまり、支配しやすくするために意図的に対立関係をつくるという、他の多くの植民地でも使われた戦略によるものであった。これが内戦の引き金となる。
南部には豊富な石油資源と地下水脈がある。スーダン政府はアラブ人で構成されているため、これらの恩恵をアラブ人が黒人から搾取するような開発をしたり、強引にイスラム化を推進したりした。これに黒人が反発し、ゲリラ闘争を展開した。
第1次内戦(1955~1972)と第2次内戦(1983~2002)で、200万人が死亡、600万人が難民となった。
2004年に和平協定が調印された。

・ダルフール紛争
内戦が終息に向かってめでたしと思いきや、2003年にダルフール紛争が表面化した。
西部のダルフール地方では、1990年代からジャンジャウィードと呼ばれるアラブの民兵組織が黒人の村を襲撃していたが、同じアラブである政府がこれを援助して次第に激化し、ダルフールは黒人虐殺の舞台となっていった。
2003~2008年で30万人が死亡した。
一方的な虐殺だけでなく、レイプ、略奪、破壊が繰り返され、「史上最悪の人道危機」ともいわれた。
ダルフール紛争は内戦ではなく、民族浄化を目的としたジェノサイドである。
そして、現在も続いている。

これほど深刻な状況でありながら、国際社会の対応は著しく遅れた。
国連やAU(アフリカ連合)は、これがジェノサイドであるかどうかの判断にしばらく迷っていた。
アメリカがいちはやくジェノサイドであると宣言したが、ブッシュ政権は、すでに始まっているジェノサイドの阻止よりも、根拠希薄なイラク戦争を起こした。世界もそっちに注目した。
1994年のルワンダ虐殺という前例がありながら、国際的な対応が遅れたために多くの命が見殺しにされた。
日本の対応、報道が不十分なのはいうまでもない。これほどの惨劇が大々的に報じられない日本は、まったく別次元な問題がある。

  スーダンの位置