2014年6月3日火曜日

プノンペン 2

チュンエク大量虐殺センター。

 
入場料$6。
自転車駐輪代1000リエル(25円)。
無料で日本語オーディオガイドを借りれる。



通称「KILLING FIELD」。

世界で最もヤバイ場所。





1975~79年、ポル・ポトを最高指導者とする共産党「クメール・ルージュ」がカンボジアを支配した。
クメール・ルージュはこの処刑場で虐殺をおこない、現在8985体の遺骨がこの慰霊塔におさめられている。

カンボジア全土でこのようなキリングフィールドが300以上確認されており、それぞれ1000~1万の遺体が発見されている。



銃弾が高額だったため銃殺されず、オノやナタなどの安価な農具で殴り殺された。



















当時使われていた建物等は、クメール・ルージュ政権崩壊後まもなく取り壊され、建材として持ち去られてしまったため、現在は残っていない。



一見ふつうの公園のようで、ただ見て周るだけではわからないことも多い。
訪問者たちはオーディオガイドを聴きながら、深妙な面持ちで黙々と歩いたり立ち止まったりしている。
8割ぐらいが欧米人。
日本人、アジア人、もっと来てください。



ポル・ポトがめざした原始共産主義は、簡単に言えば格差や階級のない自給自足の原始時代へ回帰することであった。
商業、教育、宗教は禁じられ、貨幣制度も廃止された。
私有財産も禁じられ、すべてが国有化された。
すべてが国有化されるということは、人間も国家のコントロール下に置いてロボット化されることを意味した。
男女は隔離され、恋愛は禁止で強制結婚、6歳以上の子供は親からも隔離された。

原始時代に帰りたいのだから、都市というものも放棄される。
人々を都市から農村に強制的に移動させて、農業経験のない者たちに農作業を強いた。
強制移動に例外はなく、老人、子供、妊婦、入院中の重病人までも有無を言わさず全員徒歩で移動させ、移動中に多くの者が死に、また移動先でも過酷な労働で多くの者が死んだ。

処刑の対象となったのは、教育を受けた者。
知識は格差をもたらす。
知識人は反逆する可能性が高く、コントロールしづらい。
この新しい理想郷には、我々指導者以外に知識人は不要。
教師、医師、学者、技士、外国語を話す者、あるいは本を読んだりラジオを聴いたりしているというだけで、またあるいはメガネをかけてるというだけで、手が柔らかいからというだけで、ここに連行されてもれなく殺された。
歌手、芸術家、僧侶などもその対象となった。

「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない。」 by ポル・ポト

当のポル・ポトは、裕福な育ちで、パリに留学経験のあるインテリであった。

ポル・ポトは、教育を受けていない農民、それも13歳以下の子供をクメール・ルージュの兵士として入隊させた。
知識のない子供は洗脳しやすく、また若い年代ほど残虐な行為を平気でやってのけてしまうものだ。

驚くべきことに、キリングフィールドの死刑執行人の多くは、このような子供であった。
子供が大人を殺していたのである。

ここに450の遺体があった。






今も、雨季になると土が流され、人骨や歯や衣類が地中から姿を現すことがあるという。




ここには首のない遺体が166あった。


首をはねられたのは、反体制派、反逆者、離反者、裏切り者。
見せしめのためだ。

ポル・ポトは密告を奨励した。
仲間であれ家族であれ、自分を密告するおそれがある場合は、生き残るために先に自分が、仲間や家族を密告して処刑させる、ということもあった。

「罪のない人を誤って殺してしまうことは、敵を誤って殺し損ねるよりマシである。」 by ポル・ポト



ここでは女性が処刑された。


女性は裸にされ、強姦されることもあった。



女性処刑場のすぐ隣にある「KILLING TREE」。


クメール・ルージュの執行人は赤子の足をつかみ、頭部をこの木に打ちつけて殺した。

母親の目の前で。

後に遺族が復讐しに来るのを防ぐため、家族全員が皆殺しにされたのだ。

クメール・ルージュ追放後にこの地が発見された時、この木には子供の脳みそや頭髪がこびりついたまま、血でビッシリ染まっていたという。

「雑草を取り除くなら、根こそぎ。」 by ポル・ポト。

当のポル・ポトは82歳まで生きた。



何気なく木の下にあるこれも、きっとそうなのだろう。




きれいに整備されているこの敷地に、不自然にあるこれらも、きっとそうなのだろう。


「MAGIC TREE」。


この菩提樹にスピーカーをぶら下げ、一日中大音量で革命歌を流し続け、チュンエクの村全体に轟かせていた。
断末魔がチュンエクの村人に聞こえないよう、かき消すためだ。
処刑される者が死の間際まで耳にしていたのは、この爆音の革命歌だった。

オーディオガイドで、革命歌のひとつを聴くことができる。
この菩提樹の前でそれを聴いた。

全身鳥肌が立った。





数人の西洋人もここで処刑されたことがわかっている。
かれらはジャーナリストであり、カンボジアで起きていることを世界に知らせることができずに殺されてしまった。

カンボジアは国境に地雷を敷設して閉鎖し、完全鎖国政策をとっていたため、世界は、この時ここで起きていたことを知らなかった。







生まれた場所や時代が違っていたら、自分がどのような考え方をしていたかなんて、わからない。
育った環境によっては、戦争を肯定していたかもしれないし、テロリストになっていたかもしれない。
自分は違う、そんなことはありえない、と言い切れるだろうか。
ただ、このポル・ポトに関してだけは、世界中どの文化においてもどの時代においても、本人以外に賛同する人がいるとは思えない。
毛沢東やヒトラーやスターリンでさえ、「おまえそれ、やりすぎ」と引き止めに来そうだ。
狂気の独裁者やジェノサイドは歴史上それほどめずらしくないし、現在も存在している。
同じようなことが今後また繰り返される可能性は大いにあるが、ポル・ポトのマネだけは誰もやらないでしょう。
と思えるほど常軌を逸したことが、ほんの30数年前に、日本の近所で起きていた。
歴史の中で、ここで起きたことからどんな意味が読み取れるのか、少し考えてみる必要がある。

クメール・ルージュの裁判が本格的に始められたのは、なんと2008年、つい最近のこと。
ポル・ポトはとっくに死んでいて(他殺か自殺かは不明だが服毒死した)、幹部たちも高齢で、ある者は寿命をまっとうし、ある者は認知症と診断されて釈放されるなど、グダグダな状態で現在も裁判続行中らしい。

殺戮に直接手を下した子供兵士たちは、当時13歳だとすると現在50歳前後、どこかで生きている。

市街地からキリングフィールドまで約12km、幹線道路で行ったのだが、やはりひどい道。


カンボジアは、今のところ停電もないし、水も出るし、Wi-Fiも好調だ。
道路整備だけが異常に遅れているのは、やはり地雷撤去が妨げとなっているからだろうか。
道路に関してだったら、東アフリカの方がはるかにまともだ。

宿に戻った直後、スコール。


ついに雨季到来か。
 


30分ほどでやんだ。

やはり、道路の排水がまるでなってない。






この程度ならまだ走行可能だが、川や用水路の周辺は洪水状態かもしれない。
ということをインドネシアで学んだので、今後はルート選びに要注意だ。
砂の未舗装でスコールが降ったらどうなっちゃうんだろうな。


Phnom Penh, Cambodia



4 件のコメント:

  1. カンボジアには民主カンプチア時代に伝統的な放ったらかし?農法の生産性の低い浮き稲から、生産性の高い田植え式稲に転換するために作られためちゃくちゃ無尽蔵な灌漑用水路があちこちに走ってるらしいです。
    どっちも技術が伴っての話ですが、氾濫するわ稲育たんわで。

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    1. 仮に虐殺がおこなわれなかったとしても、ベトナムからの侵攻がもう少し遅れていたとしても、自国の食糧をまかなえないようでは、放っておいても自滅してたでしょうね。
      いや、どんな仮定を立てても、あらゆる方向から突破口を探してみても、破滅以外の結論は導き出せないですね。

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  2. 言葉が見つからない。
    何故このような行為がおこなわれたのか。
    同様の行為を繰り返すのか。

    日本ではこの施設の存在を知らない人が多いだろう。

    写真とryoの解説で埼玉県にある丸木美術館と同じぐらいの衝撃がある。

    もう起きてほしくない・・・

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    1. 「The Killing Fields」という映画があるらしい。
      帰国したら見てみたい。

      たしかに、アウシュビッツやルワンダやヒロシマ・ナガサキに比べて、この知名度の低さは何だろう?
      この事例はあまりに特殊すぎるけど、ジェノサイド自体は繰り返される。
      ダルフール紛争に決着がついたというニュースはまだ耳にしないし、中央アフリカでは現在進行形でジェノサイドが起きている。
      日本で報道されているだろうか。

      http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140210006

      http://blog.livedoor.jp/sun_news/archives/cat_30344.html

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